講義紹介(世界史講義)「イデオロギーの解剖教室としての原典世界史講座」

 私にとって原典世界史とは何よりもまず「イデオロギーの解剖学」の実演の場であった。あるテクストがもつ世界史的な価値についてそれが著された時代に関する歴史学的な知識と文中に使われている語彙についての言語学的分析に基づいて判断することは、文献学の基本的な営みであり、人文科学の基礎となるものである。

 文献学者とは一つの言語、あるいは一つのテクストの研究に一生を懸ける者であり、彼らの努力が驚嘆すべきものであることは、講義の中で先生が繰り返し強調された点であった。

 だが、原典世界史とは古典的なテクストについて、文献学的に言及することによって、「本によって世界史を語らしめる」だけの講義では決してなかった。歴史学的な知識を縦軸、言語学的な知識を横軸として、そのテクストに固有の「記述のレベル」を措定していく試みでもあったのだ。

 「記述のレベル」の設定は講義が進み、記述に関する認識が深まっていくのと比例して、テクストそのものから、テクスト内の文章、さらにその文章の中で使われている個々の単語へと至る極めて精緻なものになっていった。

 まったく異なる時代、まったく異なる言語で書かれた言葉であっても、歴史と言語とによって画定された「記述のレベル」が共通であれば、同じように読解しうるということ(このことは、デカルトの『我思う故に我在り』と大乗仏教の唯識の思想が、同じ状態を各々精緻極まるレトリックによって表現したものであるという先生の説に端的に現れている)は言葉によって書かれたものであれば、どのようなものであれ記述論的なやり方で読解しうるということを我々に示してくれた。
人類が書き残した世界史的なテクストについて、それがどのような時代状況で、どのような言語によって、誰の手によって書かれたかを問うことなく、同じ基準でもって読解できる物差しである「記述のレベル」という道具はその相対性のゆえに、全てのイデオロギーを相対化し、「記述の恣意性」の名の下に解体する。これが先生の仰った「記述論はイデオロギーの解剖学である」という言葉について、私が現在理解していることの全てである。

 私が原典研究所で得た最大のものは、「記述のレベル」という概念とその実践であった。今後とも世界史講座が続いていくとすれば、私の興味は、テクストに対する歴史的、文献学的な知識以上に、先生がどのようにそれらのテクストに「記述のレベル」を適用し、「記述論的」に読解していくかということにある。3年前には世界史の表層である政治史に主たる関心を向けていた私が、「記述論的」な世界史の講義を楽しめるようになったこと自体、一種の「全体験変容」であり、3年間に渡る「イデオロギーとテクストの解剖実習」に参加し続けた結果、先生が最初に仰ったように「頭の構造が一変」して今日この日を迎えたのである。

平成30年9月1日 御手洗 佳寿

 

 

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