イタリア語講座 第25回(4/18)講義録

中垣太良

今回は、『君主論』第二章の最後の段落を講読した。

[4] Noi abbiamo in Italia in exemplis el duca di Ferrara, il quale non ha retto alli assalti de’ viniziani nell’ottantaquattro né a quelli di papa Iulio nel dieci per altre cagioni che per essere antiquato in quello dominio. [5] Perché el principe naturale ha minori cagioni e minore necessità di offendere, donde conviene ch’e’ sia più amato; e se estraordinari vizi non lo fanno odiare è ragionevole che naturalmente sia benevoluto da’ sua. [6] E nella antiquità e continuazione del dominio sono spente le memorie e le cagioni delle innovazioni, perché sempre una mutazione lascia lo addentellato per la edificazione dell’altra.

[4] 我々は、イタリアにおける例としてフェッラーラ公を有する。フェッラーラ公は、自身の領地において代々君位を引き継いできたというただその理由によってのみ、1484年のヴェネツィア人による攻撃にも、1510年の教皇ユリウスによる攻撃にも耐えることができたのだ。[5] 生まれながらの君主は、(民衆を)苦しめる動機も必要性も薄いため、より愛されるのも当然である。そして、もし仮に極端な悪徳が(民衆に)彼を憎ませることがなければ、彼が自然と民衆によって慕われるのも、もっともなことである。[6] そして、支配が古くから脈々と続く中で、革新の記憶と動機とは霧散してしまうのだ。というのも、いつでも一つの変革が、次の変革を構築するための待歯石[※]を残すものだからだ。(拙訳)

[※]待歯石(まちばいし):建築用語で、将来の増築に備え、建物の壁に残す突出部のこと。

主語を“Io”から“Noi”へと転換させ、マキャベリは再び語りの客観性を装う。

そして、“ il quale non ha retto alli assalti de’ viniziani nell’ottantaquattro né a quelli di papa Iulio nel dieci per altre cagioni che per essere antiquato in quello dominio”について。直訳すれば「自身の領地において代々君位を引き継いできたという以外の理由では、1484年のヴェネツィア人による攻撃にも、1510年の教皇ユリウスによる攻撃にも耐えることができなかった」、つまり「〜という理由によってのみ、……耐えることができた」ということである。ややこしいようだが、フランス語の“ne…que〜”が「〜しか…でない」を意味する(例、“L’homme n’est qu’un roseau.”「人間は一本の葦でしかない」)ことを連想できれば、わかりやすい。

ここで例として挙げられている「フェッラーラ公」(“el duca di Ferrara”)とは、エステ家のエルコレ1世(在位1471~1505)およびその息子アルフォンソ1世(在位1505~1534)のことである。ここで、エステ家について『イタリア・ルネサンス辞典』を引いて確認した。同家は11世紀以来の名家であり、その家名は始祖アルベルト・アッツォ2世がパドヴァのコムーネ「エステ」に定住したことに由来すると考えられている。12世紀末、フェラーラの有力貴族とアッツォ5世との結婚を契機に、エステ家は同地における勢力を拡大し、13世紀後半のアッツォ7世やオビッツォ2世の時代には支配体制(シニョリーア体制)を確立、1598年にフェッラーラが教皇領に併合されるまで同地での支配を保ったのであった。

以上はフェッラーラにおけるエステ家支配の歴史のまとめだが、これはフェッラーラの歴史の一側面を粗く削り取ったに過ぎない。そして、イタリア史を掴むには、こうした主要都市の歴史を概観して頭に入れておく必要がある。続く第三章は古代ローマからマキャベリにとっての「近現代」に至るまで、さまざまな史実が引き合いに出される『君主論』中最長の章であって、やはり無防備に飛び込んでは泡を食ってしまうのである。そこで各自、休暇中にイタリアの主要都市史をざっと自習しておくよう勧められた。

第二章で述べられていた論は、君主の血脈が途切れなく続いているほど支配が安定しやすいという、当たり前といえば当たり前の一般的法則であった。しかし賢明な読者ほどここで油断せず、さまざまなことがらを想起し、結びつける。奇妙な言い方かもしれないが、私たちは読み手として、テクストと協力し合わなければならないのである。テクストは巌のように沈黙しているのではない。しかしまた、私たちはテクストの声に無抵抗に導かれるのでもない。私たちは読むことによって、テクストと〈伴走〉しているのだから。

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