『原典黙示録』第100回(4/23) 講義録

『原典黙示録』第100回 講義録

田中大

〈偽典〉pseudepigraphyが〈歴史〉を創る。このアイロニーは、〈言語主体〉である人間の宿命であるのだろう。そして〈偽典〉は〈聖典〉に先立つのである。まず〈聖典〉が確乎として存在して、それ以外のテクストが〈偽典〉であるとみなすのは、実は論理的な順序を捉え損ねている。むしろ実際には諸〈偽典〉が先に存在していて、そこから或る瞬間に或る〈偽典〉が〈聖典〉として浮き上がってくるのである。時の流れと共に、様々な〈偽典〉が〈聖典〉として浮上してその「甘美な瞬間」sweet momentsを享受し、また再び諸〈偽典〉の海の中に沈没する。この〈偽典〉の浮沈運動こそが〈時代〉の変化であり、〈歴史〉なのである。

これは一見あまりにも奇抜な論理のように思えるかもしれないが、それもまた聴き手の「聴き取り方」a mode of listeningの問題と理解すべきだろう。或る〈視座〉の下では、〈歴史〉はまさにこのようなものとして現れるのであり、そしてこれこそがまさしく〈歴史〉をもっとも正確に把握することが可能となる〈視座〉なのである。本講義でなされてきたことは、全〈世界〉を相手として、こうした聴き取り方を自在に調整し、聴き取るべきことがらを最もよく聴き取るための訓練でもあったと言えよう。

そして全〈世界〉を論じることを目的とするがゆえに、この講義は常に〈世界〉の誰よりも先んじた一地点に立ちつつ行われていた。そうでなければ、論じている最中に〈世界〉の方に追い越され、それを見て取ることすらままならなかったであろう。ましてや今、〈時代〉は急速に変わりつつあるのだ。そこで遅きに失した者は、前時代の〈聖典〉と共に沈みゆく運命にある。彼らは「生によって罰せられる」punished by lifeことになるのである。

『原典黙示録』はこれで終わる。しかし「完結」して閉じてしまうことはない。なぜなら人間が存在する限り終わることのない諸〈偽典〉の揺らぎの在るところに、記述論的〈黙示録〉もまた、その可能性の条件として常に存在し、そこから誠実な〈言葉〉の探究者たちを導き続けるからである。

一回一回が途方もない密度をもったこの連続講義を100回――『世界史概説』をも含めるならば250回――にも亘って続けられた先生に深甚なる敬意を表しつつ、本講義の最後に先生が示された三つの引用を結びに代えて、擱筆することとしたい。

Pseudepigraphy has its sweet moments;
history has no power over them.
(Moshe Idel, Maimonides and Kabbalah, 1991)

This may seem like circular reasoning.
But it isn’t reasoning at all;
it is a mode of listening.
(Stephen Mitchell, The Gospel according to Jesus, 1991)

Only nine issues ago was Gorbachev quoted as having said, “those who arrive too late will be punished by life.” What a macabre self-fulfilling prophecy!
(Kazuhiro Saito, 1991)

*      *      *

私の講義録も、今回をもって最終回となります。皆様に当「連載」をお読みいただき、屢々ご感想や激励のお言葉を賜ったことは、この不佞の講義録記者にとってどれほど大きな糧になったか知れません。先生と本講義録の読者諸兄諸姉に、改めて心より感謝を申し上げます。
ありがとうございました!

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