イタリア語講座 第26回(4/25)・第27回(5/16)講義録

中垣太良

ご無沙汰しています。

ここ二回のイタリア語講座では、『原典黙示録』の完結を承けて、本文講読は一旦脇に置き(イタリア都市史の自習期間を設けるという意味もあります)、今後の講義の方向性についてお話がありました。

別の講座が完結したからといって本講座には関係ないではないか、と思われる方もいらっしゃるかもしれません。しかし実にこの半年間、『原典黙示録』とイタリア語講座は互いに内容を刺激し合い、共演してきたのです。両講座の結び目となったのは、イタリア語講座でダンテ『神曲』を嚆矢に始まった、文献学の基礎訓練Trainingでした。まずは『神曲』、そして『神曲』の語り手「私」ioを案内するウェルギリウスが描いた『アエネイス』、『アエネイス』が骨格として借りたホメロスの『オデュッセイア』、『イリアス』……おそらく当初は、このように西洋古典文学の水脈を追う形で進行していく予定だったのだと憶測しています。ところが『原典黙示録』のほうでも、旧約聖書の一節について、またチベット語・チベット仏典について受講生から問いが発されたことを端緒に、週一回だった文献学の基礎訓練は週二回になり(『原典黙示録』で扱った話題が翌々日のイタリア語講座で続けて扱われる、といった具合に)、さらには対象範囲を(最終的には全ユーラシアを覆うほどに)急速に拡大していったのでした。

しかし『原典黙示録』は終わってしまった。共演者を失ったイタリア語講座は、ただ粛々と『君主論』の講読に専念するばかりでしょうか。もちろん、そうではありません。

『原典黙示録』に登場した一冊に、フランスの弁護士モーリス・ジョリーがナポレオン3世の統治体制を批判するために著した『地獄におけるマキャベリとモンテスキューの対話』Dialogue aux enfers entre Machiavel et Montesquieuーー『プラハの墓地』の主題である偽書『シオン長老の議定書』は、本書を種本とし、恣意的に改変した上で構成されているーーがあります。書名の通り、マキャベリとモンテスキューが地獄で出会ったという設定で、両者の対話形式で話が進行していくのですが、ここでの「マキャベリ」はあたかも権謀術数の権化かのように描かれます。むろん、ジョリーはあくまで体制批判のために彼の名を利用しているのであって、これはマキャベリの思想の断片から再構成された虚像に過ぎません。数ある思想家の中でも、マキャベリはこのような恣意的解釈を被りがちな一人でして(「マキャベリズム」なる語はその象徴です)、私たちは恣意的解釈に絡め取られ・あるいは自らを絡め取らぬよう、鷹揚にしかし慎重に読み進めてゆく必要があります。ここで注意したいのは、テクストに接するとき、それによって人生の糧を得ようという意識を明確に持っているがゆえに、その意識が空回りして、結果的に偏狭な解釈に自らを陥れてしまう、という悲劇が後を絶たないことです。テクストを自らのものとする過程には、それを冷淡に突き放すのではなく、いったん自らに引きつけるように読むステップが伴います。そのこと自体は責められることではありませんが、無自覚のうちに作者の存在が置き去りにされてしまうということが、(一般読者にせよ専門家にせよ)多々あるのです。

では、こうしたマキャベリに纏わる「誤解」 (「誤解」や「恣意」が歴史を大いに動かしうるのは、『プラハの墓地』に描かれている通りです)を受け止めつつ、彼の放つ言葉を「同時代[現代]contemporaneoの歴史」(『おんぱろす』《§. Ⅱ-[t]》)としてーー講義ではB. Croce, Teoria e storia della storiografiaの原書が披露されましたーー、いかに受け止めうるのか。こうした問題意識を携え、今後のイタリア語講座は、ルネサンス期と現代を行き来しながら、時には国際情勢に忌憚なく切り込みつつ展開していくことでしょう。私たちは、時局に切り込むために必要な構えを『原典黙示録』全一〇〇回の講義を通じて得ました。そして私たちは、マキャベリの決死の覚悟が込められたテクストの講読を通じて、この構えをいっそう練磨させてゆく。このように考えると、『原典黙示録』は終わったーーしかしまた、終わってはいないのです。マキャベリという名を媒介に(『原典黙示録』に現れたのは、虚像の「マキャベリ」像でしたが)、その精髄は確かに、イタリア語講座へと宿り直したのですから。


最後にお知らせですが、第27回(5/16)の講義には見学者の方が二人いらっしゃいました! ともに学ぶ仲間が増えたことを嬉しく思いつつ、私自身もこの機会に初心に戻り、洗い立ての精神で書き綴ってゆこうと考えております。思考と語彙の貧弱さに血が噴き出すような思いで書き連ねておりますが、しかしこの経験によってはじめて、自分が持つ言葉の血の色を(赤とは限りません)知ることができるのだと思ってもいます。

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