講義紹介 2018年12月24日(フランス語講座)

『方法叙説』第五章、デカルトと我々読者共通の難所にさしかかっています。

 

ここでデカルトは心臓の仕組みについて語り始めるのですが、その際あろうことか読者に対し動物の解剖を要求してくるのです。普通このような言辞は冗談として読み飛ばすところですが、このように語るデカルトの表情はあまりに正気であり、狂気を思わせる口吻に我々はたじろがざるを得ません。動物を教室で解剖するわけにもゆきませんので、理科の図鑑に載せられている心臓の模式図を見ながら読解を進めています。作者の言うことには素直に耳を傾けること、これは原典語学の重要な姿勢の一つです。

 

心臓に関するデカルトの解説は、現在の科学から見れば誤りであり、これを読むのは時間の浪費か、せいぜいフランス語の練習以上のものではないとすら言えるかもしれません。事実、デカルトの哲学的著作を集めた英語の書籍はこの部分を翻訳していません。「哲学的」ではないということでしょう。

 

しかし「黙殺」はこの箇所の記述に対して取り得る唯一の姿勢なのでしょうか。精神、理性、神、世界などについて語る時の苦渋に満ちた面持ちとは打って変わって、デカルトは嬉々として心臓の仕組みを述べているように思われます。ハーヴェーの血液循環論が既に発表されているにも拘わらず、どうしてここまで熱を上げる必要があるのでしょうか。

 

我々の読みはこうです。デカルトは心身の分離を言っている。しかし心身が分離しているというのは常識的な考えでもあります。問題は、分離しているのになぜ結合しているのか、です。これを兼ね備えていなければ人間ではないのですから。デカルトは精神について語り終えた後、精神のありかを肉体の中に求めようとしました。そのような思考の流れの中で心臓の話題が出てくるのです。そして最終的には「熱」を媒介として脳にアプローチしようとしている。脳を見据えた上での心臓の描写であり、従ってデカルトは心臓の仕組みの客観的闡明を目指しているというよりは、「心臓の仕組みはかくあらねばならない」という、言わば形而上学的解剖をしていると考えられるのです。

 

そもそもデカルトは何のために解剖しているのか。心臓病の治療法を見つけたいとか、そのような動機なのでしょうか。そうではなく、精神のありかを追求するための解剖であると我々は考えます。

 

有史以来、哲学の中で脳が問題になったのはデカルトが最初と言って良いくらいであり、学問の名前は種々ありつつも、今なお探究は完了していません。言語学は形而上学的脳科学、脳科学は生理学的言語学と言えるでしょう。

 

『省察』の題名は、詳しくは「第一哲学に関する諸省察」といいます。第一哲学とは心身の分離のことです。では第二哲学は? その志向の痕跡が『方法叙説』第五章のこの箇所に表れているのではないでしょうか。心身の分離から結合へという展望をデカルトは抱いていたのではないか。

 

もちろんデカルトはそういうことを明言してはいません。しかし、テクストから学説を読み取ろうとするのではなく、記述者の追体験を純粋に求めてけば、こういうところに辿りつくのではないかと思います。

 

(三村)

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