謹賀新年

明けましておめでとうございます。三が日いかがお過ごしでしょうか。

 

元日には例年同様主宰御一家と初詣に行って参りました。初詣にご一緒するのが何年目か分かりませんが、思い返せばわたくしは先生の家庭人としての姿を比較的多く拝見していることになります。先生が原典生の目にどう映っているか、これはその人その人によって異なるでしょうし、ホワイトボードを前にしているいつもの姿に「教師」の姿を見出す人もいるでしょうが、先生はご自身でおっしゃっているように「対話者」として我々に臨み、同時に我々を「対話者」として遇していらっしゃることは、初詣の時のご様子などを見ても感じられることです。わたくしなどはこういう機会にご一緒しつつ、「夫婦」とは何か、「親子」とは何かといったことを学ばせていただいております。今回はたまたま雑談がシェイクスピア作品の文献学的研究のことに及び、ここぞとばかりに耳を欹てているわたくしと、随時忌憚なきツッコミを入れるご家族という奇観を呈しましたが、それぞれがそれぞれの役割 role を十分に果たしているという点では理想的な場面 scene であったと思われます。

 

昨年は数年がかりで語られた原典世界史が満了しました。この授業はさまざまな事柄の実演の場でありました。例えばテクストの解読。あるいはテクストの生成。あるいは、歴史が事実の羅列からやがて物語になってゆくこと。そして今、先生は中世からルネサンスに至る時代に関心を移され、シェイクスピア、ダンテ、セルバンテス、ラブレーなどを同時進行で読むというようなことをしていらっしゃるようです。このような様子を目にする時、原典世界史とは、人類が考えてきたあらゆることをもう一度我々も考えてみる、全てを考え尽くすことは出来ないにしても、その精華を順に瞥見してゆく、そういう場であったのだと気づかされます。

 

先生は時々原典の先輩方のことを口にされ、彼らの異様な集中力を見ていると、自分も若い頃はあのようであったのかもしれない、とおっしゃることがあります。わたくしから見ても先輩方のなさることは規模が人間離れしており、それに引き替えわたくしの如きは相当程度怠け者で遊んでばかりいるように感じます。正直に申せば、勉強するという感覚がついに理解できないのです。しかしながら、初詣の際、鞄から『ハムレット』を取り出して「今日からこれを読むんだ」とおっしゃっる先生の眼差しは、待望の新刊漫画を手にした少年の眼の輝きに似たものがあったようです。乱暴な比喩ではありますが、このような比喩の色眼鏡を掛けて見た時にはわたくしだって同じ顔に見えるかもしれないと、ひとり威張っている次第です。

 

今年の授業は五日(土)からです。皆様のますますのご活躍をお祈りいたします。

 

(三村)

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