原典研究所では、どの〈講義〉においても例外なく、〈読む〉ということの訓練が行われております。したがって、この〈読む〉という営みについて〈書く〉ことは、原典研究所の〈講義〉一般についての紹介たりうるでしょう。本稿ではそうした観点からの「講義紹介」を試みます。
〈講義〉においては、必ず〈テクスト〉が取り扱われます。〈読む〉ということは、「〈テクスト〉を〈読む〉」ことであると言えます。ではこれはいかなる営みなのでしょうか。さしあたり、これとは対極にある営みについて記述することによって、外側から〈読む〉という営みの輪郭を浮かび上がらせてゆきます。 「文献学的/文法学的厳密さをもって読む」ということは、この営みの必要条件にはなりえても十分条件にはなりません。換言すれば、このように「実証的に読む」という態度は、それが〈テクスト〉へ向き合うための準備になることはあっても、それだけで〈読む〉という営みにはなるということは決してないということです。こうした厳密さのみを重視するのは、一種の「記述的な」態度であって、言葉を記号とみる態度と表裏一体です。こうした態度で〈テクスト〉を読んでも得られるものは多くありません。そうした態度で〈テクスト〉に向き合うならば――尤も、そういった態度をとる人に対しては〈テクスト〉は立ち現れず、そこには「テクスト」があるのみでしょうが――結局、「書いた本人に聞いてみなければわからない」というアポリアに行き着いてそこから先に進めなくなるからです。
では〈読む〉ということは「実証的に読む」という態度と何が異なるのでしょうか。何が「読み」を〈読み〉たらしめ、「読者」を〈読者〉たらしめるのでしょうか。それは、〈テクスト〉に向き合う際に「そもそもこれはいかなる〈テクスト〉なのか」という〈問い〉を携えているということです。そしてこのような〈問い〉は、〈読み〉の〈実践〉の場面においては、次の一つの〈作業仮説〉を〈必然的に〉要請します。
「〈テクスト〉とは、〈記述者〉が彼の〈文体〉=〈思考〉に基づいて不可避的に、現に〈書かれている〉通りに〈書かれねばならなかった〉ところのものである。」
作業仮説とはそれがもたらす成果によってその正しさが示されるものであります。したがって〈講義〉は、それに基づくところの〈読み〉の〈成果〉が示されることによって、この〈作業仮説〉の正しさが証される場でもあるのです。 「そもそもこれはいかなる〈テクスト〉なのか」という〈問い〉は、こうした〈作業仮説〉に基づきながら、具体的な〈テクスト〉を前にして、適切に変奏されねばなりません。このようにして立てられる問いこそ〈テクスト〉を〈読む〉ために必要不可欠な、かつそれに対して向けられる唯一の真正な問いでありうるのです(「問い」一般について言えることですが、むやみに問われた問いというものは、問いたりえないのであります。それは単なる「間投詞」に過ぎません)。こうした〈読み〉は、以上のような〈問い〉あるいは〈作業仮説〉に対して〈忠実〉である点で、「恣意的な読解をすること」とは一線を画しています。 このようにして初めて、〈テクスト〉の「いかに読まれるべきか」――これを必然的な契機(Moment)としてその構造のうちに含みもつことこそ、〈テクスト〉が〈テクスト〉たる所以です――を見出し、それに即して、〈テクスト〉を〈読む〉ことができるのです。それと同時に、われわれは〈テクスト〉を〈記述〉した〈記述者〉と〈出会う〉ことになります。そこでわれわれは人間の倫理の根源、すなわち〈倫理〉に触れることになります。〈読む〉ということについての話が、随分と大きな話に広がってしまいました。しかし、これはことがらそのものにとって必然的であるところの結びつきを辿っただけのことです。ある地平においては、テクストに臨むということと、こうしたわれわれの人生にとって最重要のことがら(「善美のことがら(καλὸν κἀγαθόν)」とはこのことでしょう)とは地続きになっています。原典の〈講義〉はまさにその地平――すなわち〈記述論〉という〈メタ地平〉――において展開されているものなのです。
(田中)