『方法叙説』講読は第六部に入り、読了の日も近づきつつありますが、数年に亘るこの授業は、わたくしにとって紛れもなく心の旅路と称すべきものとなりました。この夏になってフランスへの留学を思い立ったのもこの読書経験のたまものです。これだけ読めればフランスへ行っても問題ないだろう、と自分でも思えるくらいになったというわけです。
今回の授業では渡仏を目論んでいるわたくしのため特別に、デカルトの知的背景がいかなるものであったかを、原典及び研究書を繙きながらお話し下さいました。
デカルトの直前に相当するフランス=ルネサンスの風景は、スコラ哲学によってレールの敷かれた荒野にオカルトの暴風雨が吹きすさんでいる状況に比すべきものでした。その中をデカルトは自分の足で自分の道を作りながら歩もうとしたのです。一歩を誤れば死が待っていました。オカルトの世界は、権威主義であって、力のある占星術師などの見解が是とされます。それに追随するのでは知的な生を生きたとは言えません。またキリスト教の教義から外れる素振りを見せれば、忽ちその肉体は焼き尽くされてしまいました。要するに、自分のオリジナルな説を立てるーー徹底して je を主語にして語るーーなどあり得ないことだったのです。
『方法叙説』では台風の吹き返しを思わせる文体の高揚が時折見られるだけで(特に第五部においてそれは顕著です)、第六部に至ると、もはや田園風景の中で大地の息づかいに耳を傾けているかのような心地しか抱かせぬようになっていさえしますが、これはデカルトの達した「境地」であり、人はその終幕を見ているだけであって、凡夫はその愚なるが如き容貌に騙されて君子の盛徳を看破することができないのです。しかし先生が指摘なさるように、人間がいかにして「驕気と多欲と」を去り、かくの如き平凡さに至ることができるのかこそが問題であり、この問題を自らのものとして引き受けた〈思想家〉こそが真に〈方法〉の意義に想到することができるのです。むしろ〈方法〉なくしては生きられぬぎりぎりのところに自己を見出す、とも言えましょう。
右のような見解は、デカルトを〈追体験〉するという、この授業に一貫した態度から導かれるものですが、今回のルネサンス概論もまた、この目標にとって不可欠であることが読者には納得していただけることと思います。デカルトを出発点に据え近代哲学の歴史を記述するということであれば、これは全くの寄り道か衒学にしか映らないでしょう。「道同じからざれば相為に謀らず」、それも致し方ないことです。しかしこの授業に参加すれば、哲学的諸概念の年代記こそが衒学に陥る危険性を孕んでいることが理解されるはずです。わたくしは、授業が始まる前、机の上に並べられている書物を見た瞬間、全てを理解しました。そしてさらに数十冊の書物が取り出されるに及んで、ますます理解を深くしました。
わたくしは今一度先生の「教育的配慮」に感謝せねばなりません。文化は本から末まで理解せねばならないこと。それを可能にするだけの文献は原典研究所で我々を迎え入れる準備を整えていること。原文でただ「読んだ」だけでは、右のような「旅支度」の無い状態では、容易に衒学へ足を滑らせてしまうこと。これらを思いながらわたくしは家路に就きました。我々が〈真理 vérité〉を探究するのを妨げるものは、常に我々を取り巻いています。構成への配慮をデカルトは述べていますが、『方法叙説』は現代の書として我々の手の中にあり、原典研究所という場において、時代と世代を越えた〈鼎談〉が実現したのでした。
(三村)