『原典黙示録』第6回 講義録
田中大
『プラハの墓地』は単なる小説ではないが、小説のような装いの〈テクスト〉である。そこにはその中で物語が展開されるところの場所と時間の設定があり、何人もの登場人物が現れる。今回の講義では、こうした「小説的形式」という枠組みに沿いながら記述論的に本書の分析が進められた。著者エーコが定めた一つ一つの設定はそれぞれが何らかの意味をもたされており、それらはそこから逆算を初めてエーコ自身の体験へと遡るための入り口である、したがってこれらの設定の意図を解明していくことが著者の体験を追体験し、その視座を得るための必要条件となる。先生が言ったように「本は無防備では読めない」のである。
本作の舞台の一つはパリである。主人公シモニーニが仕事場を構えるパリには、自由思想家エティエンヌ・ドレが処刑されたモベール広場――その名はトマス・アクィナスの師アルベルトゥス・マグヌスに由来する――があり、パリ大学はフランスにおける王権神授説のイデオロギーを支え、イエズス会を創始したイグナティウス・ロヨラとその仲間たちの出身校である。また、パリのサルペトリエール病院は神経科医J・シャルコーが務めていた病院であり、その講義を受けるために各地から数多くの研究者がパリに集まったが、フロイトもその一人であった。
そしてこのフロイトこそが、本作における時代設定上の準拠枠なのである。フロイトの伝記――講義においては、E・ジョーンズ『フロイトの生涯』が参照された――を読めばわかるとおり、フロイトがシャルコーの講義を聴講するためにパリを訪れるのは1885~86年であるが、作中において主人公シモニーニとフロイトがパリにおいて出会うのもちょうどその時期に設定されている。これは一例であるが、『プラハの墓地』という物語は史実の空隙を埋めるように、巧妙に虚構の世界が現実の歴史の中に織り込まれているのである。
実在の登場人物たちについては――エーコ自身が巻末で語っているとおり――、エーコは彼らが物語の中で直面する状況においてそのように言ったであろう言葉を語らせ、そのようにしたであろう行動をさせている。これは例えばフロイトならば、「フロイトを引用している」のではなく、「〈フロイト〉に語らせている」と言うことができる。記号論者から記述論者へと転向した――これについては第4回の講義録でも述べた――エーコの文体の変化がここに如実に表れていると言えよう。このことが本書を実証的で厳密な引用によって構成された単なる歴史書ではなく、〈正確性〉の意識の下に〈記述〉された〈メタ・ノン・フィクション〉たらしめている。
主人公シモニーニをはじめとした非実在の人物については、実在の人物と違って作者によって恣意的に設定が作られているのであるが、特にその名前の〈表象的意義〉を解明することは、本書を〈読解〉するための重要な鍵となる。今回はシモーネ、モルデカイという架空の登場人物の名前について〈考証〉がなされた。Simone(<Σίμων<「שִׁמְעוֹן 彼は聞く」に由来)という名は、『使徒言行録』に登場するSimon Magus、ないしそれに由来する言葉Simonia「聖物売買」を喚起するが、これはまさにシモーネ・シモニーニが作中でなしていることと重なるし、Mordecai(<מָרְדֳּכַי<「Mardukに仕える者」(Per.)に由来)という名は、『エステル記』に登場するMordecaiを想起させるが、彼はクセルクセス王に取り入り、ユダヤ民族を迫害する者たちへの復讐を成し遂げたユダヤ人であるのだから、キリスト教徒への復讐を目論み陰謀をめぐらすユダヤの老人の名にふさわしい。
今回の講義では本作の登場人物について以上のように語られ、私はこの考察をまとめるにあたって実在の登場人物と非実在の登場人物とに分けて記述したが、このような登場人物の実在と非実在という区別は、そもそも意味をもつのであろうか。これが今回の講義におけるもう一つの重要な論点である。人物が実在していること、出来事が事実であるということは、現代の人間の思考のパラダイムにおいてたまたま重視されるだけであって、実はわれわれの〈体験〉の真正性にとって何ら意味をもつものではない。これが『議定書』というテクストの恐ろしさ――エーコがこの物語を書いたのはこの「恐ろしさ」を解明するためでもあるだろう――の根源であり、このような偽書ないしそれにまつわるイデオロギーについて書くテクストが記述論的な〈テクスト〉にならざるを得ない理由はここにあると言える。
また、先生が講義の中で指摘した「主人公はplotである」ということも、こうした次元において理解されるべきである。この物語の主人公はシモーネ・シモニーニの『議定書』作成についての記憶をめぐる「筋plot」であると同時に、そこから明らかにされてゆく「陰謀plot」なのである。このような〈文体〉において記述がなされるがゆえに、『議定書』問題は一つの〈体験〉としてわれわれにもたらされることになるのだ。