『原典黙示録』拾遺1
田中大
前回の講義の中では、「主要登場人物はイデオロギーである」ということが先生によって指摘されていた。ここを切り口として、簡潔にではあるがこれまでの講義録で述べたことを別の角度から改めて語り、また語り切れなかったことを補足することとしたい。
『シオン長老の議定書』は偽書であるが、真実を伝える書物として流布してきた。これは、この偽書が真正性を具えた〈体験〉として〈言語主体〉たる人々に受け止められたということにほかならず、まさしく記述論的な〈事態〉である。この〈体験〉の真正性こそが〈世界〉を生きるわれわれにとって一番の問題であるということは、〈言語主体〉に課せられた一種の宿命である。われわれの精神が〈自由〉であるためにはこのことを理解しておくことが不可欠であるが、それと同時に、このことはわれわれが自らの意志で〈イデオロギー〉という牢獄に囚われてしまう可能性の条件でもある。第6回の講義録で言及した『議定書』というテクストの「恐ろしさ」とはこのことである。
本作の物語はこうしてイデオロギーに囚われてしまった人々によって動かされていく。様々なイデオロギーの錯綜する19世紀ヨーロッパという舞台において、記述の恣意性の罠に気付かずに各自が野放図に一元的な〈世界〉を構築し、無意味な議論を交わしているありさまをエーコは見事に描き出しているが、こうした〈事態〉――戦後の日本の言論空間においても生じていた――から抜け出すためには、そこにに正確な〈階梯〉を設けることが必要であり、この〈階梯〉こそが《記述論》なのである。
そしてイデオロギーの〈内部〉にいる人間にとって最も根源的な感情はイデオロギーが規定する敵への、そして〈運命〉への憎しみである。本作の後半でラチコフスキーが述べている言葉――“L’odio è la vera passione primordiale.”――は、私にはこのような意味で理解されるべきように思われた。では、これに対して記述論とはいかなる営みなのか。『記述論の夕べに寄せて』の先生の言葉で本稿を締めくくりたいと思う。
かくて〈記述論〉は、それ自体がいわば友情の、さらには「愛の行為」un gesto di innamoramento(U. Eco)の謂にほかなりません。それらなくして、人は、〈運命〉を生きることはできないのですから。(p.36)