『原典黙示録』第10回(3/21) 講義録

『原典黙示録』第10回 講義録

田中大

“Training, not information”

これは原典研究所の講義のスタイルを端的に示す先生の言葉である。今回は予定を変更し、近現代のユダヤ問題を理解するうえで必要不可欠なユダヤ人の起源についてさらに理解を深めるべく、まず『聖書』の重要な写本が繙かれ、また前回の講義で簡潔に示された「ヘブライ」の語源について、実際に辞典/事典が〈参照〉され、その結論へと至る〈探究〉が実演された。ヘブライの語源が “habiru” (または “apiru” )であるという結論は無論それ自体重要ではあるのだけれども、しかしそれを知り記憶するだけで満足してしまったのならば、単に情報を得たというだけのことで終わってしまう。それより遥かに重要なのはそこへと至る過程である。受講者にその過程を実際に〈追体験〉せしめた今回の講義は、最初に引いた先生の言葉が示す通りのこの上ない訓練の場であった。

まず、ユダヤ教の原初の聖典である『旧約聖書』の本文について理解するべく、Biblia Hebraica Stuttgartensiaが参照された。これはヘブライ語聖書のマソラ本文を西洋の文献学者たちが校訂したものであり、厳密な本文批評が施され、それに基づく文献注が付けられている。続けて、この『旧約聖書』本文が依拠するところの『レニングラード写本』が登場した。さらにK. Tischendorf, Bibliorum Codex Sinaiticus Petropolitanusも同時に参照され、受講者は『新約聖書』本文の底本となる「シナイ写本」の実際の本文をも実際に閲覧することができた。

また、ユダヤ人が使用する「トーラー」תורהも実物が参照されたが、こちらは前述のBiblia Hebraica Stuttgartensiaと異なり、ユダヤ教の伝統の上に立って製作された書物であるから、文献注の類は一切ない。彼らにとってトーラーとは「魂の漲る統一体」であり、学問的な解剖など一切受け付けない聖なる〈テクスト〉なのである。このように、実際に本文を眺めるだけでも、同一の〈テクスト〉に対する西洋人の学者とユダヤ人が臨む〈態度〉の違いが見えてくる。これも〈記述論〉のひとつの出発点となる〈体験〉たりうるだろう。

次に、改めて「ヘブライ」עבריの語源が実際に辿られた。

まず「辞典」:L. Koehle & W. Baumgartner, The Hebrew and Aramaic Lexicon of the Old Testamentが参照された。この辞書は、最も充実したヘブライ語辞典の一つであり、言語学的な観点からその語の「意味」についていくつもの説が併記されている――付け加えておけば、〈読解〉においてはこのいくつもの説の中から一つを選び取る〈決断〉をすることが必要になるが、まさにここにおいて〈言葉〉の営みが倫理的な領域へと接しているのである――。「ヘブライ」עבריの項目では、まずこの語がアマルナ文書にみられる “habiru” やウガリット語の “hapiru” ――このウガリット語への言及に際しては、C. H. Gordon, Ugaritic Textbookが実際に繙かれた――と関連していることが指摘され、その後に “a type of foreign labourer” という語義が掲載されていた。

次に「事典」:『カラー版聖書大事典』が参照された。その「ヘブルびと」の項目には次のように記されていた。「ヘブライ」という言葉はアッシリア・バビロニアの楔形文字の遺跡に出てくる “habiru” (または “apiru” )が語源であり、ヘブライ人たちは紀元前二千年紀に「肥沃な三日月地帯」の国々を放浪していた遊牧民であったのだが、何らかの事情で母国を離れねばならなくなり、他の国で生活しようとした人々であるとする説があり、その説の根拠としては、七十人訳聖書の創世記において、「ヘブライ」がπερατής(「次々に移動する者」の意)というギリシア語に翻訳されているという点がしばしば挙げられる、とのことであった。

最後に再び「辞典」:W. D. Mounce, Mounce’s Complete Expository Dictionary of Old and New Testament Wordsが参照された。この「ヘブライ」עבריの項目には、 “what is in the other side, what is beyond across” という訳が当てられていた。こちらは前回に先生が示した結論をそのまま提示している記事であったと言える。

以上の辞典/事典の〈渉猟〉により、「ヘブライ」の語源を辿ることで、ユダヤ人の起源とそれにまつわる〈問題系〉を明らかにしたのであるが、このような〈探究〉も全て『プラハの墓地』の読解のためであることを忘れてはならない。これまでいくつもの固有名を手掛かりとして、様々な〈問題系〉が提示されてきた。先生が指摘するように、これらすべてがこの作品の地下において、地下茎で結びついているのである。普通の小説にはそもそも地下などないのであるから、読解のためにこれほどの〈探究〉が必要となることはない。エーコがこの作品に施した仕掛けはこれほどまでに壮大なる広がりをもつのであるが、これまでの10回の講義によって、先生がしばしば言及するこの作品の「恐ろしさ」がいよいよ明瞭になってきたと言えるだろう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です