『原典黙示録』第11回 講義録
田中大
今回の講義の主題は、ユダヤ人の〈言語史〉である。ヘブライ語の歴史を軸として、ユダヤ人の歴史が辿られた。今回はユダヤ人の起源から、タルムードが編纂された時代までを取り扱った。先生が言うように、誰かを理解するためには彼らの用いる言語を以て理解せねばならないのである。
『創世記』には、啓典の民の祖たるアブラム(後のアブラハム)が「カルデアのウル」から出発したという記載がある。ウルの考古学的研究についてはSir L. Wooly, UR of the CHALDEES’が参照された。ウルは考古学的に研究され尽くしたものの、ユダヤ人の先祖がいたという痕跡が発見されることはなかったのである。加えて、ウルの中心的住民であったシュメール人のギルガメシュ叙事詩についても言及され、大英図書館にあった粘土板のみを参照して編集したC. Tompson, The EPIC of GILGAMESH、全世界の断片を集大成して編集したA. E. George, The Babylonian Gilgamesh Epicにおいてその原文が確認された。また、これらが発掘・解読された19世紀から20世紀にかけての時期における他の考古学的成果の一つとして「ハンムラビ法典」の原文がR. F. Harper, The code of Hammurabiにおいて参照された。
続いて、ヘブライ語聖書の最古の写本を含む「死海文書」に言及がなされた。まず死海文書発掘の指揮を執ったドゥ・ヴォー神父の著書であり、最も詳しく権威あるイスラエル史であるR. de Vaux, Histoire ancienne d’Israëlが参照された。続いて、死海文書の中でも最もよく保存されていた『イザヤ書』の巻物の本文、訳、注、解説をまとめたE. Ulrich & P. W. Flint, Qumran cave 1・Ⅱ The Isaiah Scrollsが繙かれ、実際の写本の様子を見て取ることができた。また、死海文書は、その四分の三ほどが旧約聖書ヘブライ語とは異なるヘブライ語で書かれていた。この発掘・解読の成果を踏まえて、旧約聖書のみならず死海文書等のヘブライ語も網羅した「古典ヘブライ語」の辞書が、講義にも登場したD. J. A. Clines, The concise dictionary of Classical Hebrewである。
ウルを出発したとされるユダヤ人は、その後エジプトに入り、前13世紀頃にモーセの指導の下で出エジプトを果たした。彼らは荒野をさまよった後、イェリコからカナンに侵入し、前11世紀頃にはそこにヘブライ王国を築くことになる。ソロモン王の時代には第一神殿(ソロモン神殿)が建設され、これがユダヤ人の信仰の拠り所となった。また、ユダヤ人は地中海東岸地域に侵入して以降、当地を仕切っていたフェニキア人が用いていたフェニキア文字をほとんどそのまま借用した文字である古ヘブライ文字を使うようになる。
前10世紀頃、王国は南北に分裂し、まず北のイスラエル王国が前722年にアッシリアに滅ぼされ、南のユダ王国は前586年に新バビロニア王国に滅ぼされた。このときに第一神殿が破壊され、所謂バビロン捕囚が行われた。前538年、新バビロニア王国がアケメネス朝ペルシア帝国によって滅ぼされるとユダヤ人は解放され、彼らはイェルサレムに帰還したが、この時に第二神殿が建設された。また、この時期からヘブライ語に代わって当時の近東世界の共通語であったアラム語がユダヤ人の言葉となり、やがてアラム文字から発展した方形ヘブライ文字がユダヤ人の一般に用いる文字として定着することになる(*)。そして当時ユダヤ人を指導していたエズラは、この文字を導入した人物であるとの伝承もあり、ヘブライ語の歴史の始まりを告げる人物としてしばしば取り上げられる――講義では有用なヘブライ語史としてW. Horbury, Hebrew study From Ezra to Ben Yehudaが紹介された――。当時はヘブライ語をもはや解さなくなった一般のユダヤ人たちに対してはアラム語で聖書の解説が行われるようになっていたが、律法を会衆の前に持ってきて「夜明けから正午までそれを読み上げた」(ネヘ8:4)というエズラも、アラム語で朗読していたことだろう。こうした状況の中で、ユダヤ人民衆に教えを説いた際の聖書のアラム語訳は適宜書き留められるようになり、アラム語訳聖書(タルグム)が断片的に作成されていったが、これを集成したものとしてA. Sperber, The Bible in Aramicが参照された。本書はイエスがヘブライ語とアラム語のどちらで教えを説いたのかということについての大論争を引き起こした。
アケメネス朝ペルシア帝国がアレクサンドロス大王によって滅ぼされると、ユダヤ人たちはギリシア人の支配下に入る。この時期に、ギリシア人に対する「われわれ」として、彼らのユダヤ人意識が醸成されたのである。大王の帝国が亡びた後も、ユダヤ人たちはプトレマイオス朝エジプト、セレウコス朝シリアによって次々支配されるが、このセレウコス朝の時代にギリシア文化が強要されたため、彼らは反乱を起こして、前167年にマカベア戦争が勃発した。ユダヤ人は独立を達成し、戦争で活躍したユダ・マカベアのハスモン家がユダヤ人の王となった。ハスモン朝は前140年から前37年にかけておよそ100年続くが、このハスモン朝支配の正当性への疑問から、パリサイ派、サドカイ派などの分派が起こった。そしてハスモン朝が途絶えると、ローマ帝国の支持を得たヘロデが王となるが、ローマ帝国と協調する路線を採っていた彼が死ぬと、ユダヤ人とローマ帝国との対立は次第に激化し、後66年には第一次ユダヤ戦争が勃発する。ウェスパシアヌスとその息子ティトゥスの率いるローマ軍によってユダヤ人は敗北し、第二神殿は完全に破壊された。この顛末を記したのが『ユダヤ戦記』であるが、講義では本書を著したフラウィウス・ヨセフスの作品集The Works of Josephusが参照された。そして後132年、ユダヤ人たちはバル・コクバの指導の下でまたしてもローマ帝国に反旗を翻し、第二次ユダヤ戦争を起こすが、彼らは再びローマ帝国に敗北を喫した。一連の反乱を受けてユダヤ文化を危険視したハドリアヌス帝によって、ユダヤ文化は徹底的に弾圧された。ユダヤ人はエルサレムから追放され、「ユダヤ」という地名は彼らと対立するペリシテ人に由来する「パレスティナ」に変更された。
二度のユダヤ戦争を経てユダヤ人は各地に離散(ディアスポラ)することになった。第二神殿が破壊されたことで、ユダヤ人は信仰の拠り所を失い、彼らの信仰を支えるものは聖書だけとなった。この時代以降は各地にできたサンヘドリンがユダヤ人共同体の軸になってゆくが、このサンヘドリンで聖書の講釈を行った人間がラビである。また、ローマ帝国はユダヤ戦争の後も、ユダヤ人に対してヤムニアに研究機関を設けることは許可していた。後90年代に当地においてヘブライ語聖書の正典(マソラ本文)がラビたちによって決定されていったが、これがヤムニア会議と呼ばれるものである。ここで旧約聖書は現在我々が手にしている39のテクストに定められた。そこから除外された外典・偽典についてはR. H. Charles, Apocrypha and pseudepigrapha of the Old Testamenが参照され、また古典ヘブライ語から時代を経て変化したラビ時代のヘブライ語の文法書としてM. P. Fernandez, An Introduction Grammar of Rabinnic Hebrewが紹介された。
また、この時期には聖書(成文律法)に加えて、口伝律法がラビによって纏められ、ミシュナが成立した。ミシュナに加え、ミシュナに対するアーモーラーイーム(ラビの論説の伝達者)の注であるゲマーラー、ラシによる注を集成したのがタルムードである。タルムードには、バビロニアにあった集住地で作られたタルムードであるバビロニア・タルムードと、ティベリアにおいて編纂されたタルムードであるイェルサレム・タルムードの2種類がある。前者は完全なテクストとして伝わっており、単純に「タルムード」と言われる場合には通常こちらを指す。後者はところどころに抜けがある不完全なテクストとなっている。タルムードを読むにあたっては専用の辞書が必要で、講義ではM. Jastrow, Dictionary of the Talmudが紹介されたほか、英訳としては生粋のユダヤ人たちによる翻訳であるJ. Neusner, The Mishnah A new translationが参照された。
以上がタルムード成立期までのユダヤ教の歴史であるのだが、講義では最後にユダヤ教において重要であるいくつかのヘブライ語の単語から、ユダヤ教という宗教の性格が明らかにされた。先生が指摘したのは「カバラー」קבּלה――これはユダヤ神秘思想の真髄であるが、次回以降の講義で主題となるであろう――は「受け取る」という意味の動詞から派生した名詞であるということ、そしてマソラ本文の「マソラ」מסורהとは「伝える」という意味の動詞から派生した名詞であるということである。これらは前の世代から受け継いできた伝統をかたく守り、次の世代へとそのまま伝えてゆくというユダヤ教のスタンスを示している。
また、タルムードתלמודとは「学習」という意味であるが、これを他の宗教の聖典の名と比較してみるとその特質がよくわかる。コーランقرآنとは「朗誦するべきもの」の意であり、福音書εὐαγγέλιονとは「良き知らせ」の意である。これらの言葉には、聖典を広めることで布教を行い、勢力を拡大してゆくという意図が表れている。それに対して、ユダヤ教徒は布教を行うことなく、ただ自分たちの教団の中で学習を行い、聖典の〈記述の内部〉へと深く潜り込んでゆく――このことは「〈記述の外部〉を際限なく〈内部〉と剥離する」彼らのテクスト読解の態度にも表れている――。彼らは中世以降、ゲットーにおいてこのような思想を深め、それはやがてカバラーの神秘思想として結実するのである。
先生は、このような思想が歴史の中で地下を流れ続け、やがてフランス革命、ロシア革命といった歴史的大事件として地上に噴出することになったのだと指摘する。この地点において、ユダヤ〈言語史〉は『プラハの墓地』へと繋がってゆくことになるだろう。
(*)古ヘブライ文字に代わって方形ヘブライ文字が一般的に用いられるようになってからも、神名ヤハウェだけは古ヘブライ文字で記すという慣習があったようである。この特殊な表記はカイロ・ゲニザの断片や、死海文書に含まれる『ハバクク書注解』(1QpHab)において見て取ることができる。