『原典黙示録』拾遺2
田中大
第9回から第11回までの講義の主題はユダヤ学であった。その中では〈記述の内部〉に深く沈潜してゆくというユダヤ教徒の〈テクスト〉読解の態度が、ユダヤ教関連のテクストを実際に参照し、またユダヤ教の鍵概念となるヘブライ語の意味を考察することで明らかにされた。『おんぱろす』においては、宗教聖典を読む態度として、一般に以下の二つがあるということが言われている。
(1)〈記述の内部〉にさらに〈内部〉を仮構する、悪しき「グノーシス主義」
(2)〈記述の外部〉を際限なく〈内部〉と剥離する「非神話化」的な試み
後者の態度こそ、これまでの講義で先生が指摘していた伝統的なユダヤ教の聖典読解の態度である。これはすなわち、「〈記述の外部〉を〈内部〉と際限なく剥離」することで、〈テクスト〉の「神聖性」、「純粋性」を極限まで保とうとするということである。他方、前者は、己の「合理的」解釈を〈テクスト〉の〈内部〉に読み込んでゆく読解の態度を言っているのであろう。このような態度を取るならば、どれだけ整合的な解釈をしてみせようとも結局は恣意的な読解の域を抜け出ないし、そうであるがゆえにこのような解釈にはきりがないのである――『パイドロス』において、ソクラテスは神話を寓話と見做してもっともらしく解釈してみせる当時流行した言説に触れて、「でも、僕にはそんなことに取り組む暇なんて少しもないのだよ」ἐμοὶ δὲ πρὸς αὐτὰ οὐδαμῶς ἐστι σχολήと皮肉を言っている――。〈記述論〉はこれらのいずれにも与さない、「〈読解〉の新たな方途」を探る。先生がしばしば言うのは、「〈記述〉には〈外部〉も〈内部〉もないのだ」ということである。〈内部〉も〈外部〉も〈テクスト〉について論じるための便宜的な区分に過ぎない。〈テクスト〉とは《記述論》における〈階梯〉であって、開かれたものである。それを理解して〈テクスト〉に臨むことで初めて、そこに〈倫理〉が生じるのである。
われわれが〈言語主体〉である以上、われわれがテクストを読解する際の態度というものは、その現実の実践と表裏をなす。敬虔なユダヤ人は自らの伝統と文化をかたく守ろうとするがゆえに、周囲の住民との距離が生まれ、そこに摩擦が生じてしまう。先生が講義において指摘したのは、彼らは「神の前に一人立ち、そうすることで神によって義とされる」という信仰を持ち、神と人との間に行政機構が入ることを嫌うために、「郷に入っては郷に従え」ということができない、ということであった。このようにして生じたユダヤ人とヨーロッパ人との摩擦については、『プラハの墓地』においてよく描写されているところであるが、これは決してユダヤ人問題に限った話ではなく、われわれが共同体を営むうえで必ず考えねばならない普遍的な問題である。われわれは、この不寛容の時代において〈記述論的な〉寛容な精神をもって――三十年戦争の時代を生きたデカルトのように――他者に対さねばならぬことは言うまでもないが、同時に「国籍と忠誠という、もっとも現実的な点」(H・べロック『ユダヤ人 なぜ、摩擦が生まれるのか』p.53)が蔑ろにされるならば、悲劇は繰り返されることになるだろう。