『原典黙示録』第12回(6/13) 講義録

『原典黙示録』第12回 講義録

田中大

およそ二ヶ月の休講期間を経て再開された本講義であるが、この間の物情騒然たる事態を鑑み、今回は先生によって『プラハの墓地』の〈問題系〉がそれに連なっていくところの現下の政治的状況についての〈注釈〉がなされた。〈記述論〉は最も狭義には一つの言語哲学であるが、その射程範囲には〈言語主体〉が関与するあらゆる〈問題系〉が含まれるのである。

この長い戦後に、あらゆる積極的価値は解体されていった。大地から切り離され揺曳する意識家たちの唱える悪しき相対主義は瀰漫し、無聊の〈時間〉に対して、切実さを失った〈言葉〉は錆び付いていった。発される言葉は何らの誠実な〈探究〉にも裏打ちされておらず、それらは敵を沈黙させるための大義名分や、自意識を装う虚飾でしかなくなった。先生が示したように、そのような状況の下では、真率なる〈精神〉こそが貶められ、〈言葉〉をもつ者はいわば「棄民」されてきたのである。記述論的な〈視座〉から眺めるならば、こうした現代の〈言語的状況〉はそのまま、我々が直面している〈政治的状況〉と地続きになっていることが見て取れる。

目下、イデオロギー対立は激化しており、一元的な〈記述のレベル〉で全てを断罪するイデオローグ達の党同伐異の中で、我々はあらゆることがらに対する態度決定を、より強く要請されることになるだろう。先生が指摘したのは、こうした〈状況〉の中で、とりわけ祖国に対する態度は――かつてのアメリカの「赤狩り」の時代のように――、人々にとって問題の焦点となり得るということであった。

我々の持するべきは、素朴な生活者の感情であり、必然を徳とする賢者の倫理である。これこそ、我々が己の足で逞しく大地に自立し、自身の内に己の〈言葉〉を認めて語り出すための条件であるのだ。

原典研究所の講義は、言葉による経験の〈実〉を失った無告の〈精神〉が〈言葉〉を再発見するための〈場〉であるが、それは単なる座学としての人文学以上のものを見据えている。次回の講義からは再び、数十冊の書物の山が舞台に登場するであろう。しかし、これらは象牙の塔の奥に眠る埃に覆われた書物ではなく、先生による〈参照〉を通して常に現実社会に向かって開かれており、そこにおいて我々は己の一貫した〈行動学〉を鍛える〈問い〉に常に直面しているのである。

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