『原典黙示録』第21回(8/14) 講義録

『原典黙示録』第21回 講義録

田中大

今回の講義では文学理論の観点から、『プラハの墓地』の戦略について論じられた。エーコの代表作『薔薇の名前』は修道院における殺人事件の発生から解決までの一週間の出来事を描いている。この作品は、その時代の枠組みを出ることはないために、一種の歴史小説に止まっている。そしてこの点でこの作品は『プラハの墓地』とは大きく異なっている。本作の時代設定は19世紀であるが、しかしそこに登場する人物も思想も、ある種の普遍性をもって現代へと、ひいてはわれわれ読み手自身へと直接に開かれている。そのことによって、エーコはこの作品において描かれている問題を、われわれとは決して無関係ではないものとして浮かび上がらせているのである。そしてこうした記述は、書く/読むという行為の複雑化を要請する。

単なる大衆小説、娯楽小説などは「ただ書いている」作品がほとんどである。そういった作品は、ただ読んで楽しめば良いのであり、解読を必要としない。しかし、『プラハの墓地』はこれまでの講義においても触れられたように独特の語りの構造をなしているために、「直読直解」というだけでは不十分なのである。『プラハの墓地』においては、実在の様々な人物が登場するが、エーコはそれらの〈人物〉をして語らしめる記述をしているために、この作品は様々な声が入り混じった「ポリフォニー」をなす。したがってこの作品の解読のためには、こうしたポリフォニーの多層性を切り分けて理解することが必要となる。本作を読み解くためには、これまでの講義で解説されてきたような背景となる歴史や思想への理解がなければならないのはもちろんであるが、こうした文芸学的な観点から分析を行うことも必要不可欠なのである。

まず、この作品の枠組みはシモーネ・シモニーニとその分身としてのダッラ・ピッコラ、そして語り手という三重の階層によって規定されている。先生が指摘したのは、主人公シモニーニは、語り手によって「彼は」という形で語られるだけではなく、シモニーニの手記が出てくることによって、シモニーニ自身が「私は」と語る記述になっており、そして彼の憎悪がそのような形で直接に吐露されるということである。以上の重層的な語りの構造は、エーコ自身がイデオロギー的論争に巻き込まれないようにする「護身術」であると同時に、こうした憎悪の感情を最も純粋な形で表現するための真空状態を創出する仕掛けなのである。

以前の講義録においても引用したが、憎悪こそ人間の最も根源的な感情であるということこそ『プラハの墓地』の主題であり、本作の全てはこの恐ろしさを読者に実感させることに賭けられていると言ってよいだろう。これは非常にペシミスティックな認識であるように思えるが、しかしこうしたペシミズムに向き合ったうえで語られない限り、言葉は知的責任に裏打ちされていない軽率なものでしかあり得ず、そうした言葉によって紡がれる無責任な理想こそ人々を破滅へ導くのである。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です