『原典黙示録』第22回(8/29) 講義録

『原典黙示録』第22回 講義録

田中大

今回の講義では『プラハの墓地』の最も難解な点であるシモーネ・シモニーニとダッラ・ピッコラとの関係について論じられた。導入の語りが終わってすぐに提示される「私は誰なのか?」という問いから、自身が何者であるのかを想起するシモニーニの精神的奮闘が始まるのであるが、その謎をより複雑なものとしているのが彼の別人格である偽善的な神父ダッラ・ピッコラである。本編では、記憶を失っているシモニーニの手記に割り込む形で神父ダッラ・ピッコラの書き置きが現れる。シモニーニが眠っている間にダッラ・ピッコラは活動するのであり、シモニーニは眠りから目覚めるたびに新たに書き記されたダッラ・ピッコラの書き置きに当惑しつつも、それを手掛かりに自らの記憶を探っていく。

まず先生によって示されたの重要な点は、これはフロイトの夢分析に由来するということであった。ダッラ・ピッコラはシモニーニが寝ている間にのみ活動する。そして彼の書き置きとあたかも対話するかのようにシモニーニはダッラ・ピッコラに宛てて手記を残し、失われた記憶を探る。これはまさに無意識の表出である夢を分析して、無意識の核を探る作業を、よりラディカルになしたものであると言える。こうした営みの果てにシモニーニは記憶を取り戻し、最終的にダッラ・ピッコラはシモニーニがかつて殺害して成り代わっていた人物であることが判明する。シモニーニが記憶を取り戻すと、彼の別人格としてのダッラ・ピッコラは消滅する。シモニーニはある女性と関係をもち、彼女がユダヤ人であると知って彼女を殺害した。その事件は彼の精神に大きな衝撃を与え、それによって彼は記憶を失い、ダッラ・ピッコラは彼を非難する偽善的な別人格となって現れたのであった。

そしてもう一点先生からなされた重要な指摘は、これがいわば自己に関する自同律の問題を提示しているということである。偽善的な神父ダッラ・ピッコラは「私=私」という自同律に干渉する存在として、アルターエゴとして登場する。無論「私=私」という自同律は純粋な論理式としての「A=A」という自同律よりも豊かで厄介な含みをもつ。そしてここに近代以降の西洋思想において扱われてきた「私」の問題の最も困難な点が潜む。

前回の講義録にも書いた通り、この小説はシモーネ・シモニーニの手記という形で、彼が「私は」と語る文体で書かれている。憎しみの感情の細部はこのようにしてのみ、内部から直接表出する形で最もよく表現される。こうした「私は」という語りに支えられながら現れてくる憎しみの感情は、この主人公の「私」にその存在の確かさを与え返してもいる。そしてこのことが、偽善者ダッラ・ピッコラが自同律に干渉する存在として登場したことの意義を示しているように思う。物語の序盤でシモニーニは次のような洒落を言っている、“odi ergo sum”と!

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