『原典黙示録』第24回(9/12) 講義録

『原典黙示録』第24回 講義録

田中大

本講義も休講期間を除けば約半年分の回を重ねた。そこで今回はこれまでの講義の中間的総括として、「原典歴史観」が先生により提示された。

デカルトは近代哲学の祖と言われる。それは、中世神学の桎梏を逃れて、新たな形而上学の基礎を築き上げたことによる。彼は数学者であり、彼岸を認識する力をもっていた。たとえば負数や虚数といったものは、正数や実数のようには現実には現れてこないものである。これらは現実の要請によって現れたのではなく、数学上の論理的な要請によって定義されるに至ったものであるから、彼岸的な概念である。このような彼岸を認識する目でもって第一哲学を築いたデカルトの精神は、彼とほぼ同時代を生きたF・ベーコンの精神と好対照をなしているであろう。彼にとって知とは役立つものでなければならなかった。そうした彼の功利主義的な――すなわち「無用の用」を知らぬ――精神は、必然的に実証主義的な科学として顕現した。此岸を見る目しかもたない彼にとって、知とは目に見える五感の対象になる世界についての知以外のものではなかった。

教科書的には、デカルト以来の大陸ヨーロッパの近代哲学の歴史とは観念論の歴史であり、その完成者がヘーゲルとみなされる。しかし、思想史上の代表的な観念論者たちと異なるのは、彼が数学という学問をひどく軽蔑していたという点である。先生はここに彼の思想の反観念論性を見てとる。そしてここで先生が取り上げたのは、「理性的なものは現実的であり、現実的なものは理性的である」Was vernünftig ist, das ist wirklich; und was wirklich ist, das ist vernünftigという彼の『法哲学』における言葉である。この鋭利な表現の中にヘーゲルは端的に自身の立場を表明しているが、ここに読み取れるのは、彼の思想が単純に観念論に分類できるものではなく、むしろ伝統的観念論を抜け出して唯物論への〈転回〉を引き起こす臨界点に立つものであったということである。そしてこれを引き受けて唯物論へ踏み出したのが、前回の講義においても言及されたフォイエルバッハとマルクスであった。

マルクスは弁証法的唯物論に基づく歴史分析から、歴史の必然的な帰結として共産主義社会が現れてくることを主張した。しかし、共産主義Kommunismusというものが弁証法的な原理に基づく展開の末に実現されるのならば、その前に乗り越えられるべきものとして措定される項がなければならない。ここにおいて近代的経済体制を資本主義Kapitalismusとして問題化することが要請される。こうして資本主義として問題化された近代的経済体制がそもそもいかにして成立したのかという問題は、表面的な政治史や統計に基づく経済史からは見えてこない。しかし、これは今までの講義において示唆されきたものであった。今回の講義の補助線でもって、一つの歴史観が明確に浮かび上がったのだった。

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