『原典黙示録』第27回 感想
三村一貴
今回は、まず田中君が第25回講義録で言及した『ジャコバン主義の歴史のための覚書』の「覚書」が『フーコーの振り子』原文で Mémoire となっていることから、「手記」ではなく「覚書」とするのが適当であることを確認した。この『フーコーの振り子』はいわば秘密結社事典を継ぎはぎしたような小説であるが、『プラハの墓地』はこれと全く異なる。
『プラハの墓地』は現実の事件や実在の人物を参照点として物語を現実と紐づけしつつ、虚構をちりばめ筋を錯綜させているが、その中でアレクサンドル・デュマ・ペールが主人公とともに航海をともにするところは、デュマの伝記的事実と整合するところがない。当時の大文学者と言えばヴィクトル・ユゴーこそ挙げられるべきだが、なぜここでデュマが登場するのであろうか。
これはデュマへのオマージュであると同時に、読者へのヒントでもあった。『プラハの墓地』にはデュマの小説『ジョゼフ・バルサーモ』Joseph Balsamo の冒頭場面が引用されている箇所があるが、これこそはプラハの墓地で賢者が密議を交わすという場面設定の藍本となったものであった。デュマは『プラハの墓地』の〈虚構化〉の装置として登場しているのである。
『シオン賢者の議定書』成立の経緯を綴るだけでは、歴史の一齣を切り取った以上の意味を持たない。そこへいかに錦繡を重ねようとも、残るものは〈レトリック〉の堆積に過ぎないであろう。しかし『プラハの墓地』は偽典作者の思考そのものへ迫ろうとする。偽典作者は実在する一個人であるとは限らず――それはシモーネ・シモニーニなる名前の無意味さが物語っている――、intertextualityの網目の中で形成される。その有様を『プラハの墓地』はメタ的に描いているのである。
このような『プラハの墓地』の〈偽典〉的性質を念頭におけば、〈偽典〉がその〈運命〉を自ら語る〈テクスト〉としてこの小説を読むことができるであろう。その行き着く先は小説の終局が示唆している。